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資本主義。 [政治]

 佐藤優さんの、資本論の講義録2冊と、これまでの副島さんの著作を読んで思った事ですが、まともに引用して書く時間がなく、雑感を繋げて思う所をささっと書きます。

「エンクロージャー運動のせいで、農家が消え羊の牧場だらけとなって、身一つで流れる労働力が現れ、純粋に商品化にされた事で、偶然に生まれたもの」と。
マイクチェックにはちょっと長い文章ですが、これが資本主義という奴ですね。それまで労働者側は共同体と完全に切れるパターンが無かったし、資本の集約等も起きなかった。

残念ながら、どの研究においても、格差は拡大してゆきフラットになるのは、今の所戦争しかない模様です。知的なお年寄りの方だと結構肌身で判る人いるだろうと思います。
私ピケティは解説や評論しか読んでいませんが、学といっても経済学でない。どうも社会学的定量調査結果のようです。結論は世界的に富裕層から税金を取ればいいと、世界的な官僚の徴税、まあ、グローバリズムの頂点的な事をおっしゃる。

それはやはり珍妙なお話で、国民国家としての成り立ちを持つ国等ほぼ無いし、あってもそれはまさに勃興期の資本家による民主政治であった訳で、さらに資本の集約等が効率的とさえ言える。

実際には、国の成立にはいろいろ物語があって、元々の国家のエリート群がそのまま官僚公務員となって、戦後の日本国憲法も、よく見りゃ立憲君主制であって、呼びかけ先は公務員である訳です。政治家も、遡ればヤクザの親分と城主と金持ちを掛け合わせたみたいなのばっかりで、その何代目か。それ以外のリベラル系は国民のカスタマーサポートです。公務員政治家は、1mmも労働者ではない。大体、ホントに国民主体であれば100%のコスト。

国民国家等ではないから、宗主国の言う通りに金を差し出し、不景気時に増税し、人口が減っても切り捨てる事ばかりする訳です。国家というのは徴税と通貨価値保持の暴力装置である訳で、「公務」はその為の仕事で、彼らがまさに国家であって、私等は住人でしかない。これは散々書いた事ですが。
1国で考えてもこの状況なのに、増税分を適切に分配する機構等、出来る訳が無いでしょう。軽いサヨクの人が福祉を良くいうのですが、それは税制で国家ポジションを強化する訳で、全体主義、ファシズム寄りです。

今は戦後すぐに戻ってしまったような物で、悪くなったと言うよりはこれがデフォルトで、アメリカの社会主義的な法制への介入もなく、かつモラルも崩れ、お受験だけで70年ですから、筋の通った優秀な人材も最早居ない。

明治大正の東京の下層社会は本を読むと、産業革命時のイギリスの様に酷い物でしたが、農家の次男以下は、いざとなれば、作男で田舎に帰る事も出来なくもなかった。戦後の農地改革で、最早田舎の共同体は殆ど崩れ、今TPPで一次産業が会社化すると、これはエンクロージャーの際の様にさらに戻り場所が無くなって、搾取の度合いが高まった場合、移民となるか、死ぬかということになってくる。ここでも戦争は必須となる(「これは中国化する日本」の書評でちょっと書きました)。

佐藤さんの本を読むと、被搾取中の労働者ポジションから状況は変えられないので、インテリ、つまり労働者ポジションであっても、教養を身につけている層や、シンプルな労働者ポジションでない者が、団結して革命を起すというのが、共産党機関紙名にある「前衛」ポジションであるようなのですね。

共産主義国は無理があって全面的に瓦解してしまった訳ですが、今確認出来ている事実というのは、格差が開き続け、戦争でフラットになると、それだけのようなんです。後は何も無い。

だから、マルクスの時代と何が変わったかというと変わらない。

ここまでの事は、講義録を読むと、戦前にすでに本を読む人なら皆判っていた事なんですよ。それが、当初の意図がかすみ、また失われながら、首無し蛇の様に連綿と様々な日本の政治情勢に続いている。共産側が革命を起こし冷戦対立があったので、対抗軸として対共産主義シフトになっている。今これを判っていないという人が多いとすれば、相当バカになった挙げ句に同じ問題に直面している訳です。

国家は暴力装置なので、革命には暴力が居るのですが(それもまた戦争でしたが)、だから共産党は破壊工作をする団体として公務員の公安のマークがつくのだろうし、暴力革命等まったく止めて欲しいですが、一方で、共産党が1リベラル党化して行く事に対して、格差や、資本主義の暗部を声高に語る口で「なにをいまさらやってんだか」と言う意見しか無いこと自体が、大きく知性の欠けた発言であると自覚すべきなんじゃないかと、私は思う。

今、目下直面している問題、それは資本主義の大問題で、その源問題を解決すべくいろいろやった人が居て、結局2サイクルの大きな戦争と、幾多の紛争が起きた訳ですが、今、そのポジションの政党が1つしか無くなって、そこがその看板を下げるとき、それが何を意味するかに少しくらい考えを致すべきなのではないか。直面している問題は、夫々の戦前とそう変わらないのだから。

そうでなければ、リベラルの大半も言いたい事だけを言って居るだけの、反知性主義の裏返しでしかないのではないかと思う。お国や機関の財布をあてにして、叫んでスッキリするだけと。私自身、知性の少し欠けた人間ですが、それ自身は理解していたい。

労働価値を変える概念と、国家を外した場所にある軸が、ポイントになって来るのだろうかと思ったりしていますが、凡夫にはなんとも。でも考え続けていたいと思います。
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