SSブログ

”認知症”からつらつら考える事。

思いがけず、認知症との付き合いが始まって随分経ちますが、最近30年以上前の事をぽろっと思い出します。最後の方、ちょっと大きい事書きます。

中学くらいだったか。ボランティアで脳性麻痺や、知的障害のある方の作業所に言った時の事。当時はまだそういった方が居ると家に隠しておくような時代。偏見も大きかったので、身内にいなければ実体はあまり分からなかったと思います。

このとき「世に言う程の事はなくて、違いがあるだけで変わらないじゃん」と思ったんですね。
そして、その作業所の非常に人権レフトな感じスタッフの方、彼はまるで道徳の先生x体育教官みたいな30手前くらいの方だったのですが、帰る前に、思った事を一人一人述べさせる訳です。

私は割と素直に「もっと違いが世の中に伝われば、良くなると思う」といったのですが、そのスタッフは、来た来た!待ってましたとばかりに「それは違う!皆同じなんです。そういった違いがあるという偏見と。。。」と人権的な事を滔々と述べ出した。

お前はここの主人かよとムカついた事を覚えています。
大人になった今は、彼は左翼運動の人権保護、権利拡大の流れで拓かれた作業所に務めるポジションだろうから、彼がそう言いたかったのだろうと判るけども、今の私より20歳位若い彼は、正義のポジションに自分を置いて、罪悪感からフリーになり、そしてそれを感じる為に、我々をモチーフにして溜飲を下げている部分もあったろうと思います。

今あの人はどうしているのだろう。
「変わらない」、だけを言い続けていたら、差別の固定化になってしまう。権利=税金の獲得による施策は、政治のリベラル側システムを使うしか無い訳ですから、それも判る。それにより、社会参加と、それによる軋轢の解消で、今は「ダイバーシティー、差異の理解」という様に私が中坊の頃言った事が、最早スローガンになっている。
数十年を経て段階を踏んで来た。それがミレニアルの世界です。

ただし、まず家族、そして社会という事で、助け合いをする事が本来の姿であって、何事もバランスです。グッドウイルの件は皆さんも覚えていると思いますが、いまや一大産業で、それはそれで医療の点数システムで構築されました。つまり保険と言う名で徴収される税金ですね。

人権活動で微分積分されてカテゴライズされる全ての人を賄うだけ税金をとれば、国は潰れますね。だからトランプも出て来る。そして、作業所のスタッフの様な人と、ネトウヨがいがみ合う。日本はもう終わってるに近いので、格段言及はしませんが、最近、この辺は最早、引いては返す“波”なんではないかと思います。

そして家庭の中は外の事象と別に、家族単位で実存的な問題です。

認知症を抱えている人は、職場にも居る訳ですけど、幾つかに別れますね。あまりハッキリ言いたくはないですが、さっさと捨てる人から、まるで今までと変わらない様に、違いを理解してうまくつき合う人。隣どうしの机で、変わらない会話をしながら前者と後者に別れる。若干、前者は自分好きの人が多いと思う。家族の中に、これら極端な違いがあると、後者の負担は激しく重くなる。

前者の人は、恐らくそのように生きて来ただけで、本来的な“家族”では無かったのだろうと思います。それも選択なのですが。

個人的には、権利なんて物はクリント・イーストウッドの「許されざる者」のスタンスが正しい様に思います。あの映画には多くの要素が全部詰まってるように思う。

この辺で。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。