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ドリフトの遍歴3。 [日記]

 続きです。

 大学では、抱えた問題を問うこと自体が難しいというような結果に終わり、そのままサラリーマンになる所まで書いた訳ですが、この「問い」を遡っていくと、書いておかねばならない事に突き当たる。

小さい頃、租界の関所を通れました。リービ英雄さんの逆パターンです。
父の仕事の関係で、アメリカ占領地といいますか、公館、施設等に、父にくっついて頻繁に行った。その中の暮らしと、自分の普段の暮らしにはどうにも消化できないギャップがありました。

両親が戦前の東北生まれで苦労もし、消費モラルは他の家庭と比べてかなり厳しかったものの、自分は何不自由のない暮らしをさせて貰いました。高度成長期の一般企業の平均くらいでは十分あったと思いますが、比較すると滅法貧相な訳です。物量、質、消費スタイルだけでなく、今はもう消えたアメリカンマインド、フェアネスの意識というか、そういうコミュニケーションの態度も含めて全てが違う。

中のアングロアメリカの人々は、皆父の教え子にあたる人なので、向こうは師弟のモラルは日本以上にあるから、対等、下手するとそれ以上の配慮をうける。今でも珍しいポジションだと思いますが、それがまたさらに判らなくさせる。同じ空の下なのにフェンス一枚隔ててこれは一体なんだろうかと。

普段自分が過ごす、みすぼらしく見える「現実」の世界でも、アメリカは、基本的に憧れの対象であるとか、モラルや価値感は称揚され、モデルとされていて、テレビの中まで物真似が溢れている。それが、なにかとても変な訳ですね。大の大人が激しく間違って滑稽な感じだったりする。

確かベイトソンの本で読んだのですが、米軍の占領地域で原住民が櫓を建て、基地の廃物の衣類等を着て、海を双眼鏡のような物で眺めておると。すわ反乱かと調査すると、その格好をして海を眺めると、沢山物資を積んだ船がやって来ると思った現地人の宗教的なムーブメントであったと。そんな誤解に溢れる。

茶髪の和装で、大和魂Yeah〜な成人式で暴れる珍走団に「それ変だよ」というとボコられますね。まだそれは耐えられる。しかしそれをジャッジする大人もそうだとなるともう逃げ場が無い。

赴任者だらけの円高時代と違い、プラザ合意前どころか360円時代ですから、周りには共有できる人がいない。殆ど江戸と変わらない様な昭和40年代の東北山村のモラルで育てられた激しく純粋な日本人としては、一部帰国子女の様に半分ガイジンへのアイデンティティに逃げられもしない。

新興住宅地の少しは都会的だと思っているまわりの連中よりよっぽど和人である自分が、おかしいよ、あの連中は実はこういうことで違う、と言うと心底嫌がられる。その間違ったクライテリアで序列化しているコミュニティからすると、私は本当に消えて欲しい人間になってしまう。

子供ですから、ここまでハッキリ言語化出来はしないですが、今から考えればおおよそこういうことで、その後ある程度世に合わせたりもする物の、そんな感情が溜まりに溜まって、あたかもそうなっているかのように論理性無い矛盾を押し付けて来る大人に切れる子供になった、そんな側面はあったかと。

それで初回の話になる訳ですね。

そこで、夫々の原理をくそみそに大人が運用している中で問題が起きているとバシッと示す河合先生に、ちゃんと見ている大人が少なくとも一人居るんだと、心底感動し、感謝し救われた訳なのでした。

三つ子の魂百までで、未だに、中心的コミュニティの上の方を、恥なく珍解釈を互いに称揚しあい、旨くやって行くようなタイプの人々には、この歳でもあまり馴染めかったりします。

 大学以後の話に戻りますが、ちゃんとフィジカルな「物」を作りたかったので、広告代理店等は受けず、製造業に就職しました。商品やサービス、ソリューションの企画、商品化や合弁の立ち上げ、運営含めて、3つ程の大きなサイクルでの仕事をし、欧米に出張も行き、外国人と仕事もし、それなりに知見も溜まってくる。最初の7~8年は、世界に、リニアに問うてリニアにレスポンスを受け、物事を成さしめる為に日々邁進できる、すっきりとしたいい時代を過ごさせてもらいました。

しかしながら、企業という場所で、やはり、世の変遷と共に昔日の子供の頃の疑問と似た感情を持つ様になります。

また長くなったので次回へ。
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