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差別について。 [日記]

差別と言うものがありますね。

人種国籍、宗教、病気や障害、地域伝統のもの等いろいろありますね。
そう言った属性でなく、今となってはごく一般的な、例えば婚姻、親子関係などでも片親であるとか、連れ子であるとか、そう言う事がふとした節目で問題になることがある。

親が戦中ですから、親世代、その前など、後添えだったり連れ子だったりと言う事は良くあって、血の繋がりがない祖父がいました。孫として分け隔てなく可愛がってもらいました。
ウチはずっと都会暮らしで、子どもの頃は、当時少なかったのですが、海外とも付き合いがあったのでそんな話は問題にすらならない。当たり前だからです。

そしてもういい歳ですから、そんな事すっかり忘れていた訳です。

所が、割と近い人で、その事が、実はなんだかあらぬ疑心暗鬼も呼んでいた事が先日あった。

自分が何もない人程、できない人程、ネトウヨやサヨの様に、何か既にある権威や御宣託に依拠して人を腐したりする面があるものです。ネトウヨは最早“日本”しかなくなっているからそうなる。サヨは“平等”ですかね。そっから微分積分されていろんな人がいる。
その人は家柄のクリーンさがそれなのでしょう。

「いやーそれは勝手な誤解であって。。。」と訂正しているうちに、段々思い出してきたんですよ。あの時も、この時も、あの妙な態度はその差別的疑心暗鬼だったのかと。

振り返ると、楽しい想い出のたくさんある親の村ですが、数名所謂「本家」系の人間では自分をあの息子かと色眼鏡で見る人もいました。八つ墓村じゃないですが。
本当に山村部落なので、子供の間にもそういう空気はありました。子供は純粋に陰湿な面もあるので、それ以前に都会者というだけでもイジメの対象になっちゃったりする訳です。
現地で足を怪我して長逗留していた事もあり、そんな時はホントに危ない。弱るとさらにやってくる。そういう時に守ってくれるのは立派な女の人ですね。
ただ、最終的にはガツンと対抗するか、遥かに超えるかしないと道は開けない。

半世紀生きたオッサンには、そんな子供の頃の怒りや軽蔑、憎しみ、悲しみは、最早そんな事もあったなあ、この時代でも相変らずそんな人いるんだな、くらいの物で、溜息と共にフッと笑いが出てシミジミとしたんですが、

同時に予想もしない意外な感覚があったんです。
スーッと体に芯が戻ってくる様な。サウナで言えば整った感か(笑)、それがあったんです。つまり、自分の基礎となるアイデンティティを確認して、力が湧いたんですね。

克服して生き続ければ、それは決して悪い事ではない。良くも悪くもアイデンティティな訳ですから。

人の関係が過剰な西日本側の人は、そう言った事がちょっとtoo muchで制度としても差別を再生産、固定化しようとしている様にさえ見える事があって、それもどうかと思いますが、なんというか差別を問題にする時に、原因を消してしまうのではなくて、それぞれのアイデンティティとして持ちながら、酷いことはせずに、克服して生きていけば良いのだろうと。

それを逆に隠したり、過剰に旗頭にして他を受け入れない、これがBADである様に思いますね。

久々で妙なテーマとなりましたが、そんな事を思ったので、ちょっと書いてみました。

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