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The Shock Doctrine を読んで。 [The Shock Doctrine]

あすは遂に選挙です。

「The Shock Doctrine」ですが、随分前から日本の版権は決まっていると思うのですが、
結局、選挙を迎えるまでに、残念ながら邦訳は出ませんでした。

出ていれば、これまでの日本の20年を振り返って正す動きを喚起する、重要な本の一つにはなっていたのでは無いかと思うと惜しいです。

あとがきで、Naomi Klein自身が冗談混じりでこう書いてます。
経済のプロでもないこんな本を彼女が出したのは、この本の膨大な協力者の「陰謀(コンスピラシー、ホントは共同謀議)」だと。
確かに彼女自身の力もあるでしょうが、スタッフや周辺協力者の力が大きかったのでしょう。それだけ世界中で同じ憂き目に合った人、おかしいと思った人がいた訳です。

 昔仕事していて、アメリカの事はカナダに聞けと言う部分があった事を思い出します。
アメリカの経済圏に巻かれて常に従属せざるをえない。しかし、ヨーロッパ色を濃く残した新大陸の国家は、個がしっかりしてて、冷静で、バランスが取れている。不思議と「分を弁えている」かの様な似た感覚を持っていて、良く、強いアメリカ側の要求に対応する為のヒントをくれたものです。
地政的に、彼女がそういう出身と言う事も影響しているかもしれない。

結果、有る視点から見た世界のグローバリズム現代通史みたいになってしまったこの本は、読んでしまうと 自国の流れを、あっそうかと客観視出来てしまう。

一人で悩んでいる時に、先達や、同じ目に会っている人を沢山知ることができたら、 それが一番力になるのは、日常でも同じ事。まさに、ショックに翻弄されている時期に、出て欲しかったなと思う。

 人に拠って、終盤は答えを提示しない左翼的な紋切り型だというかも知れません。でも、頼るべき画一的な答えを提示すること自体が、有る意味嘘であり、何度も陥穽に落ち込んでしまう可能性を作る。
渦巻く不安に、思考停止出来る錦の御旗を欲する気持は誰にでもあるけど、その気持が、各階層に向けて作られた、プロパガンダのいいカモになる。そのプロパガンダというのは、B層向けのテレビ番組だけでなく、経済理論や思想まで含まれる。

終盤に書かれている、その場に生きる人間の自助努力と相互扶助が、キーになります。当たり前と言えば当たり前ですが、ちょっと解題したい。

◇◇◇

 フリードマン、シカゴ学派がモチーフになっていますが、本来の「レッセフェール」は、利率を下手に弄ってターゲットに近づけたり、不換紙幣ドルをじゃぶじゃぶに供給できるような状態の事は言わないものだと思います。つまり、工学しない、科学してアプライしない。

暗愚な自分、特に経済を学んだ事も無い自分なのでホントに簡単にしか言えないのですが、人が生きていくと言う事は、自転車やバイクに乗って倒れない様にバランスしながら、且つ状況にいろいろ対応しながら走っているような所がある。

誰かが自分をどうにかしてくれる訳ではないし、論理や錦の御旗の言う通りにしていれば全て旨く行く訳でもない。ハイギアで効率的に走ろうとしても、ぬかるみでは止まるし、穴があったり対向車がいるのに、避けなければ死んでしまうかもしれない。自分で自分の生きている場に対して、いろいろ工夫しながら、人々は互いにバランスを取って進んでいる。それの積み重ねがその土地の人ややり方と言った物を作る。

本物のレッセフェールは、そういう人々が自助努力と相互扶助でバランスしているホメオスタシス、その集積の市場において、市場の主体性の中から最適バランスを生む様に物事が進む事を前提としている。

 景気によって変わる金融の資金の保有額と、応じて出来る金利差によって、例えば生産材と消費材への投資のタイミングなどがかわり、大きく見ると各景気指標は循環する。誰だったかハイエクだったか。
間違った無理な中期的投資は完成せずに終わり、損失となるけども、兌換の通貨であればそれを煽る余計な資金は生まれず、結果早期にリソースは再配分されて、別の経済の力となっていく。インフレデフレもプロセスです。
イノベーションが、またその波を大きくしたり特徴づけたりするといったのはシュンペーターだったか。

大学に行けば般教で教わるようなベーシックな話。
だからこそ、自由主義経済は政府の過剰な徴税や、余計な金利の操作、フィアットマネーの余計な供給を行わないと言う意味において、小さな政府という概念も生まれたんでしょう。
しかし「新自由主義」陣の同じワーディングは、違う結果をもたらす。

 フリードマンは主要な学説等読んだ事はありません。が、彼のやった事は新自由主義のレッセフェールで究極の自由主義経済だろうか。
金ドル兌換停止以後の説明として出たんでしょうが、マネタリストという部分で、もう違う。実体経済のバランスした兌換を人為的に弄る事を前提にしていながらレッセフェールは無いだろうと思う。

かれは若かりし頃理想主義者であった訳ですが、資本家が近づいて来て、彼は学者的欲望のまま、ショック・ドクトリンを進めるアメリカの財界と一体になって、DisasterやWarの洗脳的なパワーボムで、最初から前提を取り除いた跡地に送り込まれて実験をして来た。
そのまま原始共産制に移行すれば、ポルポトや文革と同じような、それまでの経済のバランスや知恵、ノウハウを一切消して洗脳した跡地。

そして小さな政府、民営化で、公共サービスや国有企業を全部売る。買う人はいないから欧米マルチナショナル企業群が、受託したり、特価で買い取って行く。
景気や経済はその場には循環せず、通貨価値は下落、格差と貧困が固定化し、改善しない。人はドル=アメリカの家畜として生きる。

ニクソンが兌換をヤメてからは、ドル摺り放題になった。そうすると貨幣価値は無い。だから重要資源の決済通貨、基軸通貨とすべく、毎年50兆円の軍事費をかけて価値を保つ。
国債乱発して軍事ガバナンスの効いている国に有無を言わせず買わせて、借金漬けにする。そうしてFRB摺り放題の特権を活用して来た。
行き場所が無くなって、ムリに詰め込んだ借財が先日ユーロやルーブルに仕掛けられて破綻して、自由経済もどこへやら。
クルーグマンが出て来て、バーナンキがホントに価値が下がるままに摺りまくって、大手の破綻寸前の金融や、企業に突っ込んでいる。

つまり、ドル体制護持のショック装置の軍事と両輪で、世界中の実物経済を裏打ちとして主奪する為に便利だったから、フリードマンの新自由主義をサポートして来た訳で、前提その物に大嘘が隠れている。レッセフェールではない、圧倒的に強い単独の意志が介入している。社会でも心理でも良く有るのですが、経済でも、特権的工学ツールをポジティブに使って弄ってしまう。

脱線すると、こういう意志を、コンスピラシー、共同謀議と本来いう。
「陰謀論だー」での、宇宙人さんや、ユダヤ会議さんと同じにしてスピンされる。ナオミさんが、冒頭引用したあとがきで、ワザワザ「コンスピラシー」と書いたのもそう言った事に悩まされているので、皮肉で書いたんでしょう。

そしてバカなんで今気付いたのですが、恐るべき事に、実最価値の交換の基礎となる実物、これはどこで価格が決まるかと言えば、まさにシカゴにあるマーカンタイルの先物取引所だった。しかもフリードマン直系が会頭。
実物価格まで操作する2段構えのしつらえを整えている。

つまり、整理すると、
自由経済の前提で有る筈の兌換通貨は無い。

世界基軸通貨はあって、それは有る一国のみが刷り放題。

兌換価値が無いので、軍事的脅威で決済用として価値を保持し、各地でショックボリュームを上げて、対ドル為替を下落させ、民営化する事で借款に拍車をかけて、重要産業と資源を欧米企業群で奪う。

その実物価格さえもその一国のマーカンタイルで操作する2段構え。

グローバリズムの完成と供に、歴史の終わりとばかりにファンファーレ。

プチと画鋲刺されて恐慌。

そういう流れです。
日本の我々もやられた。

そうして振り返ると、うんざりする位、様々な経済用語が日々、使われますが、むしろ、幻惑する為に悪用されているか、判らず使っている方が多いんじゃないか。
特に翻訳語ばかりの日本において、前提と主体と目的語の基礎知識が無ければ殆どアホダラ経みたいな物。

どんな状況で誰の何に対して、どういう効果がある、小さな政府、改革、民営化、規制緩和なのか、今謀略に陥れられずに無事でいる人の中で、誰かあの時代にマトモに言っていた人がいたでしょうか。謝罪した人は中谷氏くらい。

植草氏とケインズは良く重ねられますが、再配分の比率の効率化と国民の減税が核。それは自立と相互扶助の動きを促し、景気浮揚にも少しなる。
しかし、植草は「ケインズ」だよね?じゃ「公共事業」バンバンやるんだよな、「バラマキ」とかわらないじゃん、というくらい頭の悪いやり取りは横行。
「公共事業」を行わないと、「景気」は浮揚しないと言ったりもしてそれが「税金」だとは忘れていたりする。それ以前に、本当に”必要な”「公共事業」の工事を上からリストアップ出来るのか。

「財源」はと問いつつ、年金、税収で130兆くらい毎年集めて、且つ国民から700兆近く借金して、それは「財源」ではないのかと思わない。新たな「財源」なぞ、なんで考える必要があるのか考えても見ない。

そこで改めて規制緩和、小さい政府と民営化、改革と、言い出す人がいて、おっと思って見ると小泉竹中一派だったりして(笑

という冗談はおいて、
宗主国(というと怒る人がいますが)のアメリカがもう弱って来た。
我々はそろそろ、もう少し自ら考えて動こうとしなければいけない時期に来ている。

何年も見ないようにして来たり、考えない様にして来た事を、改めて直面しないといけない事は中々骨の折れる事です。

しかし、いままでのテレビ討論の様な、唱名主義的な意味の無い議論を見聞きし、言いたいだけのカタルシスの様な言説から脱して、これからは、全てのそういった言葉には、主語、目的語、前提をつけて、「その場に生きて自立する自分」の目から考えてみる。そしてそれが正しいか必要か考えてみる。

自分の目、見識が無いと、誰かの意図で有る事も判りません。
言うと偉くなった様な気がして、言ってるアホは無視していいんですが、その「お題目」を唱えた人は100%何かの意志や理由に基づいて言ってる。だからそれを自分の目で考えてみる事が必要です。そうして動いてみる。

その場に生きる我々が、その場の記憶を背負って、新たに動いた軌跡が、借り物でないノウハウや、指針となります。だからは先ずはそこから。

そして困った時には、自立した人同士の「相互扶助」。まあいつぞやの「友愛」でもいい。
そうすれば、我々なんとかやって行けるのではないかと思います。

明日はどうなりますかね。

この流れのオマケで、明日は5月頃に書いた気楽で緩い文でも転載しようと思います。
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