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明けましておめでとうございます。 [日記]

明けましておめでとうございます。

すっかり更新が滞ってしまいました。
バタバタしておりました。

本年も折り見て更新してまいろうかと思っておりますので、
よろしくお願い致します。

2010年01月02日14:46
「厄開けの新年。」の転載です。

◇◇◇(転載始め)

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

年末年始思ったよしなしごとを、賀状代わりに。

禁酒後の節制中に年末が来たので、やりくり必死。
基本戦略は「懐傷めて体傷めず」「時間使って体使わず」(笑

年末の酒との戦いで、払いは年齢なりに多め、酒はなんとか少なめに、付き合いは変わらず。
厳しいのがガス抜き系の飲み。若いのに節制が見えるとガス抜きにならないから、一度飲んでしまい数ヶ月振りの酷い2日酔い。
肝臓が復活してから良く判るのですが、酒は慣れと言いますが、決して強くなるんじゃなくて、悪慣れですね。

最終日は毎年の様に関ヶ原ですが、
前日一次帰任者と飲まざるを得ず、朝編成、昼に関連会社に酒もって挨拶。まあまあと昼酒でまず一回。
帰って仕事の続き。夕方偉い人が次があると言う事で早めの買い出し、納会で2発目。正月の仕込みが終わらず、若いの二人と私だけ検証終了までいて、明日帰省の彼ら連れて少し飲んで3発目。
もう21時ですが、ここから北上して知人宅で4回目。
大学の友人で、文化的な暮らしを保ってる連中の90%は中央線沿線に固まって住んでるので、横浜住まいは難儀です。終電ギリギリ睨みながらおいしい手料理を頂いて、タクシーで明日仕事の後輩と新宿直行、東急最終滑り込みセーフ。

昼から終電、4次会までやって、なんとか全部で発泡系2杯、日本酒2杯、ワイン3杯程度に納めました。

翌日家を大掃除。晦日は近所の例のばあちゃんの豆腐屋の豆腐やがんもを土産に、実家に帰って紅白。
実家に帰ると、アル・ケッチャーノと同じ食材が沢山あるし、味付けが慣れたものですから、こう言うときはやはり、自分を作って来た食文化の豊かさに触れて飲みたくなる。でも抑えめ。

 そんなこんなで年末過ごして、振り返る一年。

本厄、というより厄年はもともと1年しかないそうで、入りと出の振れを商売っ気出してつけたのか、ともかく厄年でした。
実際まさにその通り。いろいろあって、晦日はちょっと感慨がありました。

おみくじ引いた時、どれどれと、健康、仕事、金銭、出会い、縁談、探し物、家移りとかそういったものを見て一喜一憂する訳ですが、今や少し変わっちゃった。

道教というのはかなり科学で、観察とデータ集積、統計学の様に思います。
何度かそういった「サイクル」に関して書きましたが、昨年は自らの事として身を持って実感。味気なく言えば、インフラの耐用年数とか、使用電力量との組み合わせで入れ替えだとか、そんなのと同じで、ある程度決まっている。

例えば、土の上に大きな板が乗っている。
まわりで草木の種が芽を出すけど、そこは蓋をされて何も無い。

しかし、地中には、蓋がズレれば一気に芽を吹くエネルギーが眠っていて、一方で重い板でも風雨にさらされ腐っていったりする。もしくは腐らなくてもあるスレッショルドを越えると下の芽が持ち上げ始めてしまう。

エネルギーが溜まっているのに箱が小さければ、自分は変形し、そのうち箱が破裂する。エネルギーが無いのに、デカイ箱を作ってしまうと、広くて寒いホテルみたいになってしまう。箱を埋める為に生きるような事になる。

エネルギッシュな人も、整流しないと空間に雲散霧消したり、外に意味の無い強制をして破滅に向かったりする。
エネルギーが少なくてもエコに回すしつらえを旨く取っている人は、積み上がっていく。それ以前に人体そのものが、福岡さんの言う動的平衡で、平衡が崩れるとエネルギーが偏り、箱や外部との関係性において影響される。

道教的な考え方や、それに連なる、東洋医学、気や風水、そういった物が、厄年を懸命に過ごした後、すんなりと判る気がしました。
何を病と呼ぶのか、因果とは、業とは、縁とは。自分はどこにいるのか、なんなのか。文字通りすとんと腑に落ちたって奴です。

そのような感じで、家移り、結婚等々、おみくじ項目的なイベントに動きは無くても、サイクルは内包されていて、いろんな事のエネルギーや入れ物の一次決算が起こる日が来る。
忘れていても、最後アマゾンのポロロッカの様に押し寄せて止められない。避けざる惑星直列みたいにやってくる結節点。それが厄年の様に感じます。

体の方も、エネルギー落ちて来ますから、滑空を使って効率的に飛行したり、ステアに逆らわず車体を旨く使って、アクセルもカムに乗って旨く使わないと行けない。そんな心持ちに変わらないと行けないけど、一方で社会的にやる事の結果の方はどんどん高次に広がっていく訳ですね。
それが丁度40過ぎで、多かれ少なかれ組み替える必要が、生じたギャップを吸収する為に出て来る。

老荘と対立する儒学の方でさえも「40にして惑わず」といいますが、旨い事言う。滑空をつかわないと行けなくなった時に、惑っているとまた一々空に舞い上がったり、加速する際の馬力は、もう昔の様には出ない訳です。
もしかすると、惑わない様にしないと、ヤバいよ、という隠れた意味の方が大きいかも知れません。
過ぎ去ってみると、なんだかんだ、みな元々判っていた事だと気付く。それを個別の目的と結果だと思っている所に、間違いはありました。

こんな事に思いを致しておりましたが、スピリチュアルな物は欠片も無くて、大変ロジカルで論理的なタオ。

少し脱線しますが、振りさけ見れば、この様なロジカルな概念は東から西側へキチンと翻訳されて伝わっていろいろと入り込んでいる様に思います。西から東へもしかり。近代の話でなくて、千年単位の話で。日本が東洋西洋の架け橋だなんていうと間抜けです。

今まで、なんでその様にすんなり理解出来なかったのかと思う訳ですよ。
最近オーウエルの1984の原著読んだり(これはやっぱり名作!)、地デジが入ったのでテレビを少し見だしたりして改めて思う。

やはりですね、そこには邪魔があったんだと思います。
どうも我々の残した言説には、思考のある部分がガサッと欠けてる。
良く言われているので今更なのですが、特に「個」というような部分に関してですね。それはやはり中学の頃に河合隼雄等を読みはじめた遠因でもあるように思います。

それはいい事もあるかもしれませんし、一方大変に残念な事かもしれない。正月だけに、ちょっとお目出度いって奴ですね。

結果世界史的に耐えられる物はないから、近現代の日本の言説には殆ど残る物が無い。カルチャーは立ち上がるのに、変な連中だ、という事になっている。
社会も個は薄めることになっている。個が無いと言う事は、考える立ち位置がない。だからある物、貰った物を着るしかない。その中で差異を作ろうとして、禁忌がないからカルチャーは細かに広がり、本来の概念を無視した物になって、文化的にはそれは時に受ける。それこそkinkyな物も出て来る。キンキキッズは欧米行けないだろうなあ。。。

多分、多くの人は、コミュニケーションのコアは感情の共有です。
それ以外はカタチの真似ですね。感情の方は、別に今や大和魂とかでは無くて極端にいうと「バカにされたくない」=恥「なにが悪いんだ」=ええじゃないか、みたいな事だと思います。
少し短絡的な、そんな気持が満たせれば、自分が何故そこに居て何をやっているか実はあまり関係が無いというか、自分でも判っていないのかもしれない(世界平均で見れば、ですよ)。後はカワイければいい。

ただ、経済の波が有る様に、国もとうとう厄開けみたいになっている訳です。
列強のユーロアジア=ゆーらしあ、インドシナ戦略の中で、開国してクーデターで天皇制へ。帝国作って2サイクル。その後こてんぱんにやられて洗脳。社会的ロボトミー手術受けて暴れない様にされてまた60年。

覇権国が傾いて、ついにまた厄年来た訳です。それを坂の上の。。とか真心とか大和魂とか再生産していてはちょっと。
多分もう少し大人=個がしっかりしているステージにならざるを得ない。肩をならべたー!言ってやったー!みたいなのではもうダメで、ハゲタみたいな人や、官僚が暴れてますが、それではもうやっていけない。
内部は差異で、外は真似で、ではもう他人とコミュニケーション取らなければいけない局面では、難しい。

今状況は悪いものの、自分にとっては長〜く、こういう時代を待っていた様な気もして、遅まきながら、「正気」に返って頑張りたいなあと思います。

本年も重ねてよろしくお願いします。

◇◇◇(転載終わり)
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