バカボンパパではないけど閃いた。 [マスコミ]
雷が鳴っています。
今、友人から分けてもらった縁故米の最後の2合を炊いて、油ののった鯵の開きと、松前風の白菜付けで、爺むさくも実に良い夕餉を済ませ、真澄の紙カップなぞちびちびやっている所ですが、先ほど大きく気づいた事がありました。
帰宅してすぐ米研いで、雨が降り出したので洗濯物取り込みながら、仕事の事をつらつら考えてました。
Webやメルマガと別に、ご他聞に漏れずうちもtwitter運用してるんですが、フォロワーは増やせるんだけど、プロモ主体でのなんの縛りも無いかなりオトクなキャンペーン張っても、打ってもすぐに響かない。
なかなか難しいなあと。結構工数使ってやらせてるんだけどなあ、どうやっていこうかなあ。等と思っているうちにふと閃いた。なんだ。そうかと。
さんざん今までマスメディア、プロパガンダ機関の歴史や構造を暴いて丸裸に(笑)しようとしたり、そして、少しばかり諦めながら、「国を潰しても自分等だけ律令側で生き残るというのも、それぞれ食う為でしょうがないんだよね?ね?」と、「正直あんたら売国奴だけどしょうがなくやってるんだよね?」と嫌み混じりで問いかけてみている訳ですが、どうやら間違いだった。
彼らのマインドセットは違う。
少しおさらいも入りますが、マスメディアは単純にプロパガンダ能力が全てで、ジャーナリズムとか、取材力とか、制作能力等は、全部スポンサー向けのスキルや手駒で、公正だろうが虚偽だろうが求めに応じて使って行くもの。
昔、メディアは釣り船で、我々は釣られる側だという例えを書きました。客がスポンサー。ジャーナリズム、報道等がしっかりしているといったイメージは、一つの「撒き餌」として我々にそう思わせ、それが成功しているか否かという以上の意味はない。我々に只同然で提供されるコンテンツに対して特に発揮されはしない。
そんな彼らは、加えて、自由に営業してるわけでは無く、免許制で、国から役割をもって認可されている。つまり根っこは純粋な政府のプロパガンダ機関。「律令制マス媒体」といえる。
その立場で、決まって行くプロパガンダの実行プランがあって、きっとそれを一生懸命やっている訳です。私がマクラで、twitterの運用で悩んだ様に。営業部長がビジネスプランに従って売り上げ目標立てて営業にハッパかける様に。
で、最近うまく行かないからおかしいなと、うまくひっかからねえよと。ルアーが悪いのかコマセが合わないのか、漁場が荒れちゃったか、こんなに頑張ってんのにうまく行かんと。
ほんとにただそれだけの装置であり、また、中の人であるのではないか。
たまにテレビをつけて、どうしてここまで悪びれる事なく、よく見ればいかさまは丸見えなのに、後ろめたさもなく事実をねじ曲げてんだろうと。マスコミ人は皆本格的に世と乖離した気違いなんだろうかとさえ思ってました。その粘着性と継続性は何処から湧くのかと。
しかし、それは職務に忠実なだけだったのかと思えて来ました。
軍人は相手を殺すのが仕事だし、プロパガンダ機関は、プラン通りに世論を作る、つまり洗脳するのが仕事。今のテレビ番組等が、彼らに取って正の舞台である訳で、それが釣られる魚から見て、良かろうが悪かろうが、自然だろうが不自然だろうが、大勢で釣る事に成功すれば良くて、むしろ気にする点としては低いプライオリティです。だれも視聴者の為にやっていないのだから。
つまり、小沢氏を不正事実も無いのに悪人とする事に成功するまでやるのが、彼らの職務モラル、ビジネスの正義であり、アメリカに金を貢ぎ、増税する事に納得する世論を作る事に成功したときに、やりがいを感じ、やったなと同僚とおいしい酒が飲める、そういう仕事についた人達だとすれば、
むしろ、中途半端に公正な報道とか言い出す社員の方が、モラルに欠けた中途半端な奴だという事に論理的にも、実際の社内でもなるのでしょう。利益に相反する行為。ビジネスとしても残念ながらそれが正しい。
まともに読者から対価もらって、ジャーナリスティックな振る舞いが出来るような余裕のある時代は逆に、マスコミ人にとって異例なのかも知れない。
元々、ジャーナリズムは会社は関係無い。独立した個人が担うものです。読売といっても本田靖春は素晴らしきジャーナリストであり、ナベツネは全然違うわけです。
そして、そういう時期を担って来たように成り済まし、今生き残って今トップについているマスコミ人は、我々視聴者、読者に対して逆に傲慢な印象があります。
アメリカに首根っこ掴まれた官僚と同じく、外資に握られた代理店にさらに握られた大手が只で垂れ流す作りに金がかかったデフレ情報を垂れ流す装置となり、小さなメディアもジャーナリストも表から消えた。
もちろん、視聴者、読者が主体的に支払う対価で情報を提供するメディアなら、当てはまりませんね。インターネットの隆盛で、新しいそれがまた生まれつつあり、大手の設えは時代からズレつつある、そんな感じでしょうか。
マスメディアは、ジャーナリズムを標榜して我々に買ってもらう媒体ではなく、本来のプロパガンダ機関として、官僚や其処に影響する存在の意図を正確に効率的にプロパガンダする為に特殊化、洗練もされ、その中で、そこに属する人間として、マスコミ人は結果を出す為に、単に目的に向かってモラル高く頑張ってやっている。
ただ、それが、国民の利益と思い切り相反するだけの事だった。
なんとも理解不能だった、まったく悪びれる様子や反省も無い様に見える理由は、実はそれだけの事だったかと、腑に落ちてしまった今日でした。
今、友人から分けてもらった縁故米の最後の2合を炊いて、油ののった鯵の開きと、松前風の白菜付けで、爺むさくも実に良い夕餉を済ませ、真澄の紙カップなぞちびちびやっている所ですが、先ほど大きく気づいた事がありました。
帰宅してすぐ米研いで、雨が降り出したので洗濯物取り込みながら、仕事の事をつらつら考えてました。
Webやメルマガと別に、ご他聞に漏れずうちもtwitter運用してるんですが、フォロワーは増やせるんだけど、プロモ主体でのなんの縛りも無いかなりオトクなキャンペーン張っても、打ってもすぐに響かない。
なかなか難しいなあと。結構工数使ってやらせてるんだけどなあ、どうやっていこうかなあ。等と思っているうちにふと閃いた。なんだ。そうかと。
さんざん今までマスメディア、プロパガンダ機関の歴史や構造を暴いて丸裸に(笑)しようとしたり、そして、少しばかり諦めながら、「国を潰しても自分等だけ律令側で生き残るというのも、それぞれ食う為でしょうがないんだよね?ね?」と、「正直あんたら売国奴だけどしょうがなくやってるんだよね?」と嫌み混じりで問いかけてみている訳ですが、どうやら間違いだった。
彼らのマインドセットは違う。
少しおさらいも入りますが、マスメディアは単純にプロパガンダ能力が全てで、ジャーナリズムとか、取材力とか、制作能力等は、全部スポンサー向けのスキルや手駒で、公正だろうが虚偽だろうが求めに応じて使って行くもの。
昔、メディアは釣り船で、我々は釣られる側だという例えを書きました。客がスポンサー。ジャーナリズム、報道等がしっかりしているといったイメージは、一つの「撒き餌」として我々にそう思わせ、それが成功しているか否かという以上の意味はない。我々に只同然で提供されるコンテンツに対して特に発揮されはしない。
そんな彼らは、加えて、自由に営業してるわけでは無く、免許制で、国から役割をもって認可されている。つまり根っこは純粋な政府のプロパガンダ機関。「律令制マス媒体」といえる。
その立場で、決まって行くプロパガンダの実行プランがあって、きっとそれを一生懸命やっている訳です。私がマクラで、twitterの運用で悩んだ様に。営業部長がビジネスプランに従って売り上げ目標立てて営業にハッパかける様に。
で、最近うまく行かないからおかしいなと、うまくひっかからねえよと。ルアーが悪いのかコマセが合わないのか、漁場が荒れちゃったか、こんなに頑張ってんのにうまく行かんと。
ほんとにただそれだけの装置であり、また、中の人であるのではないか。
たまにテレビをつけて、どうしてここまで悪びれる事なく、よく見ればいかさまは丸見えなのに、後ろめたさもなく事実をねじ曲げてんだろうと。マスコミ人は皆本格的に世と乖離した気違いなんだろうかとさえ思ってました。その粘着性と継続性は何処から湧くのかと。
しかし、それは職務に忠実なだけだったのかと思えて来ました。
軍人は相手を殺すのが仕事だし、プロパガンダ機関は、プラン通りに世論を作る、つまり洗脳するのが仕事。今のテレビ番組等が、彼らに取って正の舞台である訳で、それが釣られる魚から見て、良かろうが悪かろうが、自然だろうが不自然だろうが、大勢で釣る事に成功すれば良くて、むしろ気にする点としては低いプライオリティです。だれも視聴者の為にやっていないのだから。
つまり、小沢氏を不正事実も無いのに悪人とする事に成功するまでやるのが、彼らの職務モラル、ビジネスの正義であり、アメリカに金を貢ぎ、増税する事に納得する世論を作る事に成功したときに、やりがいを感じ、やったなと同僚とおいしい酒が飲める、そういう仕事についた人達だとすれば、
むしろ、中途半端に公正な報道とか言い出す社員の方が、モラルに欠けた中途半端な奴だという事に論理的にも、実際の社内でもなるのでしょう。利益に相反する行為。ビジネスとしても残念ながらそれが正しい。
まともに読者から対価もらって、ジャーナリスティックな振る舞いが出来るような余裕のある時代は逆に、マスコミ人にとって異例なのかも知れない。
元々、ジャーナリズムは会社は関係無い。独立した個人が担うものです。読売といっても本田靖春は素晴らしきジャーナリストであり、ナベツネは全然違うわけです。
そして、そういう時期を担って来たように成り済まし、今生き残って今トップについているマスコミ人は、我々視聴者、読者に対して逆に傲慢な印象があります。
アメリカに首根っこ掴まれた官僚と同じく、外資に握られた代理店にさらに握られた大手が只で垂れ流す作りに金がかかったデフレ情報を垂れ流す装置となり、小さなメディアもジャーナリストも表から消えた。
もちろん、視聴者、読者が主体的に支払う対価で情報を提供するメディアなら、当てはまりませんね。インターネットの隆盛で、新しいそれがまた生まれつつあり、大手の設えは時代からズレつつある、そんな感じでしょうか。
マスメディアは、ジャーナリズムを標榜して我々に買ってもらう媒体ではなく、本来のプロパガンダ機関として、官僚や其処に影響する存在の意図を正確に効率的にプロパガンダする為に特殊化、洗練もされ、その中で、そこに属する人間として、マスコミ人は結果を出す為に、単に目的に向かってモラル高く頑張ってやっている。
ただ、それが、国民の利益と思い切り相反するだけの事だった。
なんとも理解不能だった、まったく悪びれる様子や反省も無い様に見える理由は、実はそれだけの事だったかと、腑に落ちてしまった今日でした。
2010-12-22 01:23
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