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「中国文明の歴史」を読む。 [本]

岡田英弘「中国文明の歴史」読了。

 読もう読もうと思って積んで失念していたのですが、読んで見れば、正直「中国化する日本」の読後より遥かにインパクトありました。と書くとおかしい。その前提となる世界史、特に近隣諸国の歴史に私がものごっつう蒙昧だという事ですね。お恥ずかしい(笑

実際の所、読後、これまで読んだ中国に関する物を振り返ると、意味ないもの、夜郎自大&悪意のある物、インパクト有ったけどそうでも無くなったもの、そして正確にそれを把握している正味の物に別れてきます。戦前の読書人、知識人の方が、今より中国史等の理解は深かったでしょう。

たまたま前のエントリは旧約聖書を世界史と重ねて見た物で、昔の中東〜地中海周辺のユダヤ古事記という趣でしたが、この本はアジア地域を、特定民族の肩入れなく、入り乱れての壮大な通史となっています。ヨーロッパ史くらいの感じです。新書ですが、ノート片手に数回読まないとちゃんと把握出来ないです。これは。

結局、中国という国の枠や、核となる民族、言語がある訳でなく、流動的な民族の国々の中で、中原の覇者が王の中の親分となる、くらいのイメージなんですが、そのように聞いた事はあるものの、通史でなぞって実感しました。

すると、その上での我々日本は、良いも悪いも無く沢山登場人物が居る中の、中堅以下のワンオブ小国である事はもう間違いない所で、我々としては大陸に行くと、もう一つ王の上の概念の枠組みがあったと言う事なんです。
ただ、「陸の時代」の中国としては、攻略が苦手だった様に見える大陸辺縁の島国だったので、昔はアメリカ大陸に用はないですから、よろしくやっといてね、という程度で殆ど歴史に出て来ない訳です。

こんなに長い歴史の中で、南宋攻略別ルートの為に、世界最大の帝国を築いたモンゴル帝国の時代に2回攻撃されたとか、倭冦といいつつ大陸側の人が親分だったとか、そんな感じです。
秀吉の頃、国内が勢力が飽和してしまって、初めて他のアジアの国のような事をする訳ですね。半島に突然行って秀吉死んで引き返す訳なんですが、信長、秀吉、家康、この頃は大分世界の物事把握していたに違い無いです。
翻って国内を考えると、鎌倉以前の国としてのガバナンスは、これは縮小版中華的で、緩かったんじゃないですかね。

で、日本はそうした周辺のその他大勢だったのが、欧米の地政戦略に組み込まれて維新を経てからの存在としては、中原の覇者的歴史を終わらせ、文化的な影響を多大に与える、モンゴル並のインパクトを持つ国に初めてなった訳なのです。通史で言えば。

文化という意味では、元々日本の言語文化は中国の漢字によって成り立っている訳で、侵略という方の意味でなく、施政にはずっと使われていた科挙、官僚等のシステムや、言語、知識の体系が、新しい世界のダイナミズムで使えなくなった時、先にそれをこなしていた、日本の漢字ベースの翻訳システムによって多くが輸入されていったということになると。

昔化粧品のFMのCMかなんかで、革命も自由もその他重要な概念がかなり日本語であるとやっていて驚いたんですが、戦中から今の時代にかけての、国民国家的になるその過程で、近代国家に具備される様な概念や、共産主義的な思想そのものを含め日本の翻訳、解決策がベースとなったという事ですね。なるほどなあと。

各国と国交を結んで、鄧小平以降の経済施策で近代化を成し遂げた今は、その上で、直接に西欧の事物を吸収する素地が出来ていて、マナーやソフト面以外、日本的な物はお役御免になりつつあるという具合でしょう。

その上で、変な話、日本を敵にして愛国を煽り、官製きっかけとはいえデモも起こる状況、これは、1党であったり、まだ成り切れてはいないかもしれない、超巨大な国民国家として初めて纏まり切る為には、出ない方がおかしいというくらいの物でしょうか。国の上、でなく、1近代国家になった際の「国民」のアクションとしては。

妬み半分で、中国が潰れるとか言って溜飲下げてる人がいますが、大体紛争になんかなったらこっちが大変な訳で、いろいろあっても経て来た隣国として、モダンな方法でつき合って行く事以外に何かあるんでしょうね。
大体に置いて、こういった歴史の流れに身をおいている方々から見れば、アメリカに首根っこ掴まれてる姿は、逆に良く見えているのだろうと。

読んで、思惑ありの仕掛けに一喜一憂する事のアホさ、本屋やネットに溢れる煽りビジネスの下らなさを実感出来る1冊です。

この辺で。

「戦後史の正体」を読む。必読です。<短評> [本]

 先のエントリで書いた、2009年頃書いた旧約聖書と歴史の読み合わせの日記ですが、その前に、話題の「戦後史の正体」の感想を。

凄い本でした。ちゃんとした感想文、書評を書こうと思いながら時間が無く、またの機会としたいのですが、”「戦後史の正体」以後”と言う言葉が出来るのではないかと思える、「属国・日本論」クラスのインパクトがある必読書です。

昔小室先生の著作の書評で、

◇◇◇2010-09-20のエントリよりここから

そして最後、アローの背理(ジレンマ)が簡易に説明されます。
B>A でC>Bであれば、C>Aである推移律が保持された状態で、このABCを自民、共産、社会で判りやすく説明しているのですが、こういった推移律が成り立っている3人が、2政党の組み合わせで投票をした場合に、個が推移律に従った選択をし、民主的に投票したとしても、全体として不合理な選挙結果を生む事が簡単に証明される。

◇◇◇ここまで

こういうジレンマの説明がある事を紹介しました。
恐らく、こういう事を普通に織り込んでプレーヤーを育て行っている米国の工作、戦後の戦略から外れる自主路線の首相達にそれが仕掛けられ、従米に引き戻される流れが、証拠となる参考文献等をきちんと引用されて、戦後通史で書かれています。

ベターかつ実現可能なオプションを進める勢力に、実現不可能なベストを求める勢力をぶつけて割る事で、結果は現状維持の望ましく無い状況に落ち着く。中でも、岸総理と安保騒動の下りは白眉で、原発に関する現在の動きに被せて考えたくなるポイントです。

このblogに個別に書いて、疑問を呈していたり、訴えていた事が、大抵は網羅されていて、まさに高校生レベルの知識の私みたいなのをサンプルとして想定し編まれた様な著作でした。
判りやすく、かつ参考文献、資料をきちんと引用し、タイムラインとして正確さを守り書かれた歴史書です。
殆どの世のウソは、言わない事と時系列のごまかしですから、そういうことが無い様に注意して書かれている。

長く外交の現場に居たエリート官僚の方は違いますね。昔、官僚OB著作を十把一絡げに印象を述べてしまった事が一度有ったかと思いますが、アメリカの圧力を正面から取り上げた点で、孫崎さんは他の著者とレベルが違いました。失礼しました。

最後に思う事ですが、戦前からの流れにおける「自主路線」の受け皿が、官僚機構の中には最早消滅してしまったとすると、そして「エトス」的な物も断たれてしまったとすると、自主路線という物は果たして取りうるのだろうか、と、いつもここで発している懸念に戻ってしまう所があります。

ただ、この本の内容が、主権者を啓蒙し、コモンセンスとなるので有れば、ゲームの先に違うオプションと動きが生まれるでしょう。そして、ベターを選びとって行くしか無い。

結局そこそこの短評になってしまいましたので、バイブル&山川読み合わせは、
次回にいたします。

それでは。

「隠された歴史」を読む。 [本]

先週飲み屋で、珍しくテレビに谷垣、山口、どじょう各氏が、泥酔会見の篠原氏のような顔で写っている。瞬間何が起こったのか把握。

その後の「おわび」にビックリ。民主政体じゃないって言ってるのと同じじゃない。
いやそれを必死で伝えようとする裏メッセージなのか(笑
終わった終わったと、国民の大半が存在を知ること無く勝氏が引退。それとともにメディアが消費税を政局という意味以外でようやく書き始める。

折しも4年に一度の大埋め草キャンペーン、なでしことか日韓戦とかにまぎれてちょいちょいと。3Sてのはホントに効果あるものですね。

 今日はそんな話ではなく、感想文です。

話題の書。副島隆彦「隠された歴史」読みました。
是非、読んで下さい。オススメします!

宗教人であったり、宗教、宗派の研究者であったり、既になんらかの形でコミットしている人にはあまり勧めませんけども、そうではなく、大勢を恐らく占める、なんとなくそれらに取り巻かれて暮らしている、デカイ岩とか地蔵とか、鎮守の社とかで拝みはするんだけど、ノンビリーバーというような私の様な人こそ必読です。もう絶対に読んだ方がいい。

私、昔どなただったか、道場の重掲と呼ばれる掲示板に、旧約聖書に関して歴史と重ねて書かれている人がいて、ちょうど自分も国境線の無い地中海中心の地図を見て、バカの壁が外れて妄想している頃で、それを読んで衝撃を受けた。

で、自分でも擦り合わせやってみた事がありました。
SNSの日記に、3〜4年前読み物として乗せようとして書いたもので、ラノベ(笑)って感じですが、一緒に乗せるのも失礼なんで、読んでみて読むに耐える物であれば、後で乗せます。

旧約が編纂されたのはユダ王国滅亡後、ビフォーキリストの間。今やリーバイスの先祖レヴィさんが、アレクサンドリアでギリシャ語で編纂した。この後一気にリアルタイム歴史記録的になるマカバイ記があって、これは外典とされている。そしてヘブライ語の5書が出来たのは、実はホントにキリストのビフォーアフターくらいらしい。

で、その擦り合わせ作業をしてみた感想としては、これは思い切り古事記とか日本書紀。
しかも後半、和歌集ではないけども、文学がくっついてる。

出来る限り民族の由来を遡り、それと恐らくあったで有ろう、大きな歴史イベントを当時の先端の歴史知見を集め、自分の民族のスレッドを絡めて作った有職故実、民族史。
3大啓典に対しては、普段全くそんな印象を持ちませんが、基本はそういうモンなんだとやってみて驚きました。

副島先生の本でも書かれていますが、日本語のカタカナで書けば、アブラハムとハンムラビとか。
カイン=農耕=文明かな、とかラムセスとモーゼとか(太陽の”ラ”息子達”ムーセズ”)、出エジプトの頃のサントリー二火山の大爆発とか。なーるほどって感じなんです。

これを、我々にとって、身近すぎて、諸々の意味でそれを行うのが難しい「仏教」に関して、究極の大づかみ視点で副島先生はやってくれた訳なんですよ。もし今まで書いた事にご興味あれば、激しく読みたいでしょう?

最初に、すでにコミットしている方にはあまり勧めませんと書きましたが、それはやはり、受け入れられないのではないかと思うからです。多分それぞれの領域、レベルで「間違っている」事を沢山見つけられるでしょう。結果駄本として排してしまう。

でも、副島先生は、サルベージを信じた人々の積み重ねて来たもの、これを深く尊重すると書いています。
視点に必要な事や、時系列に関しては丹念に調べ、現地や人に当たってその場所の「当たり前」である事を前提を排して見る。副島先生が知人に連れられて、東京の場末のカラオケバーに行った時、そこで出稼ぎでホステスをやっている中国人女性達に、信心を聞いてみた下りが最高に面白い。そして、自分で考えても、確かにそうかもしれないと思います。

その上で、じゃ読んでみるかと思えるならば、上のような方々にも是非読んで欲しい、率直で大きな視点のあるオススメの一冊です。

お盆ですし(笑

ではこの辺で。
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今読むドラッガーの「ネクスト・ソサエティ」。モダンという事。 [本]

読みさして積んでおいた、ドラッガーや山本七平の本を行ったり来たりしてます。

前の日記で、日本的奇形と書いた事等はよく考えると数十年前から優れた先人が幾らでも言及しています。そういう方に限って、扱いにくい重鎮、天才として見えないメディア座敷牢に入れられてしまう。山本七平、小室直樹、吉本隆明しかり。
有名だけど、あまり普通に読まれない。そしてそこに書いてある事が忘れられてしまう。

ドラッガーですが、これとんでも無い人だと思う。

現代を形作る重要な事をやった人の多くが、驚く程に世紀末ウイーンの出身ですが、その一人。人類学とか社会学とか、カテゴリを生んでもおかしくなかった人ですね。でもなんとなく、”マネジメント研修の先生”みたいなイメージだったりします。
マネジメントという言葉を聞くと、ビジネス研修所の自販機コーナーの疲れた顔や、人事のアテンダントが頭に浮かぶ(笑)
そんな膨大な手垢がついてしまって、かつ本屋の棚では40までにやっとくこと、とか、ジョブズとか、自己啓発とか、リストラにおびえるサラリーマンが覗くコーナーに置いてある。

トンデモ本の棚にジョセフ・マッカーシーの「共産中国はアメリカが作った」が何故か置いてあるような物か。その意味ではやはり広く誤解されているかもしれません。

一度読んでみようと古本買っておいといた10年程前の「ネクスト・ソサエティ」邦訳を読んで結構驚いてます。企業や国際情勢、日本、現状まんま本の通りなんで呆れます。この人はウイーンの副島先生か。

確実にワールドアジェンダ作成に強く影響してた一人でしょう。この本が日本でも相当売れたんだとして、なんで今こうなんでしょうかね(笑)
やはりモダン無き我が国は、民は唱名のみで騒ぎ、一方アジェンダ推進側の指導層は、説明出来ずに最後無理クリ押し付けただけ。この15年くらいのコトゴトの根拠がさらさら書いてあるこの本ですが、日本の官僚についても、「格別に優れた能力はないが、この連中、代替勢力が現れない限りは、日本の指導層として残り続ける」とさらっと。あーあ(笑

世紀末ウイーン出身者達は、言ってみりゃ、結果的には土地に定着しない叡智であったので、そんな人達によって作られたアジェンダは、グローバリズムとなるのかもしれません。

 もとい、そんなこんなで、今更ですが日本人と「モダン」と言う事を考えました。
日本は国民が民主化をした歴史がないし、モダンを身につけた時期がないと良く言われます。

西欧のモダンを一夜にして日本化した明治維新や、生来のポストモダン的な側面をドラッガーは評価しますが、日本の、状況に合わせて味噌クソに吸収したり、ずばっと即日対応する傾向は、きっとアングロアメリカの目には異様に写り、評価は常に、ミラクルorおぞましいという両極に振れる。一方で大きな国際舞台で日本がヘタレなのは定評がある(笑

モダンのタブーの壁を超えて、うまく見えれば、抜けきれない自分等の先を示すヒントとなるポストモダンと賞賛され、プレモダン原人だと思われればとんだおぞましい土人だという事になるのかもしれません。

よって日本人は、「ポストモダン風プレモダン人」と言う事になるのか。
まさに「猿の惑星」のモデルが日本人なのは、そういう事でしょう。

やっぱり官僚の話に繋がるのですが、国際舞台というモダンをベースに出来た場所は、モダンに醸成されたプロトコルを持たない猿では入れないから、日本人個々まで変えようがないけど、少なくとも総体としては形をつけなければいけない。

モダンワールド内に位置を設定し、国内の無軌道で異様な吸収、同化をそれに整える必要がある。そんなポストモダン先取り風味のある、プレモダン人国家の形を整える為のモダン関連公務員。これが近代の日本官僚の発祥だよなあ、と思った訳なのです。

普段はこのブログでは、
「必要な公務をしてもらわなければいけない、国民が食わせている公務員」と捉えた時の、あたりまえと思える事を書いています。

所が、彼らは少なくとも明治以降は、主権云々どころか自分等が国を形作って、プレモダンのいきものを旨く飼ってやってきた国家の中心線だと。恐らく「国民主権って言ってもいいけど、それ民草の中でだけの事だからな」と言うくらいなのかなと。そうだとすれば、これは相当擦り合わせが難しい訳ですね。

ただ、やはりそれは大きな間違いですね。筋論、ベキ論からいうのでなく、モダン係がfetalに失敗してはや20年くらい経っているからです。

ドラッガーの本には、旧態依然としたシステムの日本の金融は、先の本でも、はやく変わらんとどうしようもない存在であると。そして郵貯もやり玉に上がってました。これ崩されたビッグバンのあたり、もう15年くらい前ですか。

今程知見は無かったのですが、直接他国の企業の事情が、個々人の口座に直結するんだと判った時に、これもう今までの「国」の意味がばっさり削られたなと、当時思いました。

国内の個人が完全にモダンに晒される状態になった=モダン対応係の皆さんはまったく要らなくなった、という単純な話しです。

国民をそのまま外圧に晒すなら、存在価値が無い。権威も、立場も、予算も無い。後は純粋に必要な公務をプロフェッショナルに行えばいい。最早半分に縮むかと思えば逆に膨れ、社会保障の完全な失策の責任を取る事も無く、更に税を絞り上げ、自己保存をする。
挙げ句にモダンに晒された国民が、遅ればせながら王道として国民代表を上げると、総掛かりで潰す。こう書くと本当に悪い人達ですね(笑

先のドラッガーの本に書いてあったことですが、
今後政府が可能なセクターは大分限られて、グローバル企業、NPO(これも日本で手垢ついてますが)等が重要になると書いてある。しかし、経済合理性に対して、政治的情熱及び国民国家がぶつかると、後者がやはり勝つとも示唆している。

いまや古本は二足三文でしょうから、是非読んでみて下さい。
むしろ今、再び読み時の面白き一冊です。
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「中国化する日本」を読む。長男以外の存在。 [本]

去年の3月5日のSNSの日記の最後に、茨城でクジラが打ち上がってる。地震が来ないといいのだが、と書いてありました。

当時、クーデター政権がグズグズになって只では済まない様な妙な切迫感の中、ニュージーランド地震と同じ宏観異常。なんとなくそれらが相俟って、不安に感じていました。そして6日後に本当に大地震が来てしまった。

この1年はいろいろ有りました。今の仕事もどうなるか判らない物の、こうして忙しくもしていられ、人々と付き合ってもいられる「今日」の幸せをしみじみ感じています。

 さて、「中国化する日本」ですが、これがもの凄く面白くて、夢中になって読みました。かなり長いスパンでの歴史解釈を著したものですので、人によりいろいろ途中で引っかかるかもしれません。

あえて付けたであろうタイトルで判る様に、著者自身、夜郎自大な蒙昧な輩に対する嫌悪感が行間に滲んでいて、挑発して見せる様な所もある(笑
でもDon't judge a man until you've walked in his bootsです。取りあえず彼が言う「学問」の靴を履いて最後まで歩いてみて下さい。結論はともかく所々で引っかかる人程、いつもより長く歩いてみる事で、フン詰まっていた事が大きく広がる様な部分があるでしょう。

最早、有名書店では押し物でトップ棚入ってますし、書評も百花繚乱で、amazonだけ読んでもお腹いっぱいな感じなので、今更な書評はヤメます。私的に印象の深かった所で。

 宋時代に、貴族が消えて、徳の頂点の皇帝の下で皆科挙を基準にスーパーフラットとなって、身分制を排した近代を打ち立てたというのが「中国化」の意味で、欧州もその文脈で近代化を遅れて行った。
植民地政策、ショックドクトリンではないですが、「フロンティア」から吸い上げた富の圧力もあって、欧州の近代が後を追ったと言う訳です。あくまでその中で貴族の権利をじりじりと順々に下に卸した物が、ヨーロッパ的な民衆の権利だよと言われてみれば、まさにそうだよなと。
どうも常に上から目線の偽善の殻に包まれている様に感じ、かつそれをコピる日本人の左翼のちぐはぐさを、物心ついてから感じてましたが、その所為でしょう。
一方、鎖国&封建制度で個々の土地に垂直統合ユニットを固定して、内部は身分制で固定。今の春闘に至るような階級間関係を作ったのが「江戸化」と。いちいち頷ける事が多く、大変勉強になりました。

 満州くらいならともかく、江戸的な封建制を、スーパーフリーの味を知った近代発祥の中国に広げようとしても旨く行くわきゃないでしょ!という日中の戦争に関してはそりゃまったくだよなあ!と膝を打つ感じでした。

一方で、その戦争や、明治維新、大正デモクラシー、高度成長期の首都圏の生き様、その辺の諸々がまさに江戸的封建制の下での、田舎の長男とそれ以外の存在と言う物と激しく結びついている事について、改めて江戸化の流れで判りやすく書かれた所について、こういう話しは久々に聞いたなと感じました。

最早大半の方が直接的に実感の無い年齢だろうと思いますが、社会学的なこういう3男的観点での研究というのは、自分が大人の本を齧り始めた頃には結構見た様に思います。小説やそれこそ手塚治虫の漫画にだってありました。
しかし昨今、日本の風景が何処も同じになって来たと同時にこの辺の実感は亡くなった。今後親やその上の世代が消えるとともに、記憶や実感は消えてしまうのでしょう。今「おしん」をやっても誰も共感で泣かない世になった。

あれだけ「哀史」とされる野麦峠の女工さんは、実はそれでも家の仕事より良かったという隠れた前提がある。
やはり哀史としての「お国の為の」戦争に送られて散華した若い兵達。彼らもやはり語られぬ前提があって、奉公に出されて野垂れ死ぬか、良くて作男の3男は、出征がもの凄く清々しく開放的だったかもしれない事も想像がつく。そういった事に対する実感ですね。

 そんなに昔の話しではないんですが、私、一生無免許でクルマを運転していた人を知っています。それはヤンキーや、珍走団の話しではありません。農林作業なんかで便利ですから、軽トラとか覚えて乗る。酔って田んぼにハマった時バレる。繰り返しているうちにお迎えが来てしまった。なにしろ牛の代わりですからね。

著者的に言えば、封建制の名残で、公権力もそんなにひどいオトガメはしない。お巡りさんも「マンズ○×のジンベさも困ったもんだ」ってな具合です。
そんな人がいるような、電話だって全戸にあった訳ではない、殆ど戦前戦後の区別等無い江戸のままかという田舎の部落は、おおよそ私が小学校の頃まで日本中にあったはずです。

そこに生きる爺さん婆さんの中には、読み書きが十分でない人が沢山いた。著者ならずとも、寺子屋、識字率が日本の発展にと教わることは、正直微妙だなと思っていました。実際自分の婆さんの一人は読み書きは苦手でしたし、その旦那さんは書けましたが、これが普通に読み書きというのと違う。古文書の様な凄い字なんですね。

古文書ってのは、まさに勘定や契約な訳で、仕事上自営なので勘定が出来て、必要なイベントで扱う様式を把握しているという感じでした。当然昭和も50年代くらいになると仕事のやり取りも世に合わなくなり、その息子が諸々行う事になりました。

思い出すに、思った事をしたためる事はあまり無かった様に思います。たまの手紙は確かカナ混じりの文だった。つまり、感情の発露、コミュニケーションと言う物が、今私も含めblogにオナニー的に書き散らしているような現代の人間、自省的なモノローグをスラスラとノタまう我々と全く異なり、それが普通の人の振る舞いでもあった訳です。

 上の免許無し爺さんと近い世代の人には、子供心に不思議な人もいました。それこそ後から考えれば、作男的な存在であったのか、敷地の妙な所に無理矢理掘建て小屋みたいな家を建てて住んでいたり。長男以外は奉公に出たり、江戸ならぬ東京に働きに出たりした。
実際樺太で亡くなったやら、旅館に奉公に出て肺を病んで亡くなったやら、行方知れずになったやら、そんな話しが多かった。

そんな封建的な村で生きる事や、そういった感情を普段表さない安全弁として、祭り等があったように思う。皆祭りはとても大事にする。意味が不明でもやるんです(笑)とにかく飲めや歌え。そういうとき酒乱は布団蒸しにする。ビョーキが治らんと座敷牢にと。
西鶴とか徒然草等古典をよんでも、あさまし(笑)と同じ様子を書き記したものが結構有る。

当時は東北の日本海側から東京に出るなんて今NYで和食屋バイトに行く10倍くらいは大変です。なので奉公に出れば、出たきり一生会わない事もあった。
我々の親の世代は、この本では、それがあくまでタイミング的な僥倖であったと書かれていますが、多く仕事があって、経済が上向いていたので、奉公先ですりつぶされる様に死んだりせずに都会に出てなんとか小単位で家を等持つ事も出来た。

これが経済的に大変で、かつレッセフェールだとどうなるか。
半年くらい前に、明治末期の東京の下町の様子のルポが乗っている、「東京の下層社会」(ちくま学芸文庫)を読みました、ネットカフェなんて極上ホテル。当時の下層社会を知る事が出来ます。彼らが主に食っていたのは集めて売ってた残飯です。そんな残飯にもグレードがあって、極上品があった。それがまさに、軍の宿舎の下水から流れる物だった訳ですね。

どれだけ軍人さんが眩しかったか想像がつくという物です。
一生うだつの上がらない運命を強いる、村や家族のヒエラルキーを遥かに超える、「お国の為」に働く人として尊敬され、服も支給され、違う国にも行き、勉学も、飯もと。文化的な暮らしを送る為のかなり割のいい手段であったと思われます。自分が作男にもなれず、当然嫁も貰えず、さらに似た様な家の奉公に出されて実家よりこき使われて客死するより、また貧民窟で残飯食ってのたれ死ぬのと比べれば、兵隊さんは最高のチャンスだったかもしれない。
一方でそんな時代で貧農救済もテーマの一つに、江戸的に5.15事件とかそんな出自の軍人が起こしてしまうのも判る。

私の親の時代になっても、田舎では学校の前に朝牛馬の世話、雪山で炭焼き、奉公先に出されれば、一日働けばもう一日学校に行って良い、という過酷さもあったと存命の親類より聞きます。それ以前は一体いかほどかっていう話しですね。
そこを抜け出せて、長男でも得られない、生活、文化、なにより一生得る事など適わなかった尊敬と大目的を得て、思い切りやって、それで死ぬことがあったって、素晴らしい取引であったかもしれない。

だから、清々しく、国を守る為に活躍した清廉な沢山の末端の軍人を賛美して何が悪いという事と、国の為と信じこまされ若い命を散らした悲劇よ、という人の双方が本質と主体を外している。
前者を間違うのは、まさに現実社会ではかばかしく無い、ネット右翼という存在であり、後者は、無理矢理徴用された国の犠牲者と、市民と言う上から目線で認識したがる左翼である訳です。

ご遺族の方の実感としては、
まるで今の世からすれば地獄の様な、奉公の暮らしから逃れ、生まれて初めて感じる様な長男を超える大きなテーマの為に身を捧げると言う事に、半ば喜んで兵隊に行ったよと、それでもやっぱり死んでしまったのだ。今の誰も国の為に戦争に命など捧げなくても良い世から考えれば、ホントに不憫な事であったと。
清々しく突っ込んでいったのは、それが江戸的序列の平和の犠牲として、すりつぶされて死んで行くより遥かに良かったからかもしれず、悲しむ遺族の涙は、そのようであった親族を近代寄りの今となって不憫に思う涙、で有るかもしれない。

そんな主体からみれば、ネトウヨに対しては、前者に対して見れば、そうだねえ、そういう時代であって、悪と言われては罰が当たるかもと言ってもくれる。
市民に対しては、後者には、なんだかんだ、そうかもしれんね、最終的には犠牲に旨く使われたかねえと応対もしてくれる。

そういう実感を上澄みの2項対立で消し去っては、いけないと思うのです。

この本では他にもいろいろ思う事がありました。本来「科挙」「官僚」というのは似た性質であるはずだけども、良く書く、日本の夏、官僚の夏(笑)的なサムライエトスとの関係等、少し整理しきれていない所もあります。ブロンなのだろうか?
随分前に、スーパー恥ずかしい千年史ならぬ、250年史を3連投でここに書いたりしてるのですが、間違ってる(笑)割に、ポイントが似ていたりするので、與那覇さんの学問成果に照らして、反省して見たりしてみたいと思ってます。

またちょくちょく纏まったら書く事にいたします。この辺で。
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